「せいたちいかん・・・」
森と共に生きてきた土佐の杣人の言葉です。
「せいてはいかん。森の時間に合わせていかんと」
という意味でしょう。
しかし、100m競走のような猛スピードで
人生のマラソンコースを走り抜けていった人がいます。
森の伝道師とも呼ばれ、
里山の風景をつくる会の理事をお願いしていた
田岡秀昭さんです。
7月1日は田岡秀昭さんの三回忌。
それに合わせて、田岡さんの評伝
「森の叫び-嶺北を愛した田岡秀昭三十年の軌跡」が
出版されました。
6 月23 日、高知で開かれた出版記念会も兼ねた
田岡秀昭さんを偲ぶ会には、
かつて田岡さんと親交のあった人たち100 人程が集まりました。

田岡さんの木をつかって見事な建築をつくってきた
建築家の山本恭弘さんや上田堯世さんらの顔も見えます。
田岡さんと共に四国の森の木を生かす戦略を立てていた
高知大学の飯國先生ら研究者の他、県庁や林業関係者、
さらには県外の工務店の方々も集まり、
「森の叫び」の著者、中谷正人さんの講演を聴きました。
私たち里山の風景をつくる会からも
徳島8 人、香川2 人、高知4 人が参加し、
在りし日の田岡さんの活躍に思いをはせたのでした。
「森の叫び」の編集には
高知放送の笹岡高志さんからの呼びかけがあり、
私も企画の段階から加わりました。
その中で見えてきたのは、
田岡さんのたぐいまれな優しさと
森の未来に対する深い憂いでした。
工務店の方や設計者・親交のあった人たちへの聞き取りでは、
その人その人と真摯に向き合い、
心をこめて接していた田岡さんの姿が
うかび上がってきました。

なぜ、そんなに田岡さんは“せい”ていたのでしょう。
「森の叫び」を読んでいただければ
よりわかりやすいかと思いますが、
嶺北への大規模集成材工場の進出による
森の循環への壊滅的な打撃、
特に自伐林家へのダメージをどう食い止めるかに
心を砕いていたことが伺えます。
そのための“れいほくブランド”の立ち上げであり、
“れいほくスケルトン”の開発であったと思います。
「人口減少が続く源流の森に
残された時間はそんなに長くはありません」

里山の会報2011 年1 月号に
田岡さんが寄せた文章の最後の言葉です。
この半年後に田岡さんは亡くなりました。
森と同様に田岡さんの時間も残り少なくなっていたことに
迂闊にも私は気付きませんでした。
いや、会報の編集をしていた私は
最初に田岡さんの原稿を目にして
いつもと違う田岡さんの
悲愴で思いつめたような文章にある不安を感じたのでした。
その不安を私は意識の下におしこめてしまったのです。
どうにかできなかったのか・・・。
悔いが残ります。
田岡さんは、
大規模集成材工場は資本の論理で動き、
可能なかぎり木を安く買いたたこうとするので、
森で人が暮らす仕組みそのものを崩壊させると書いています。
そして、唯一森の循環を取り戻せる価格形成力があるのは、
無垢の木を表わしでつかう「里山の家」であると
強調しています。

田岡さんの思いとは逆の方向へ
時代は動こうとしています。
この8月から大豊町に完成した
大規模集成材工場が稼働し始めています。
この工場では柱や梁の製品をつくるのではなく、
ラミー材という板材に原木をおろすだけの工程で、
製品に仕上げるのは本社工場です。
嶺北は素材供給地になってしまうのです。
田岡さんが誇りにしていたピンク色の嶺北材は
切りきざまれて、工業製品である集成材になってしまいます。

そこにブランドとしての価値はあるでしょうか。
10 人ばかりの作業員で
年間10 万㎥の木材を加工します。
高知だけでなく四国全体の木材がこの工場に
飲み込まれていくことになるのではと危惧されます。

あらためて思います。
田岡さんの主張したように、
自伐林家たちの小さなシステムで森の循環を守っていく方向に
力を注がねばならないのです。
大きなシステムだけでは森は荒れ、
そこに暮らす人たちの生活が壊れるのは目に見えています。
里山の家のような荒壁・漆喰・木の表わしの家を
もっともっと広げていくことが、
今求められているのではないでしょうか。
里山の風景をつくる会  理事
建築家   野口 政司

この本を希望者にお分けします。
著者    中谷正人(「新建築」元編集長)
発行者   「森の叫び」刊行委員会
製作協力金 1000円+送料 が必要です