毎年夏には戦争に関する本を読もう、
半世紀近く続けている私たち読書会の約束事である。
加藤周一の長編小説「ある晴れた日に」。
今年はこれを読む。
「・・・・太郎は、浅間を見つめながら、
いつか頭のなかで同じことばを繰り返している自分自身に気がついた
―ある晴れた日に戦争は来り、ある晴れた日に戦争は去った。」

小説はこう結ばれ、あとがきには
「私は、この小説を戦争で傷ついた若い日本国民のすべてに捧げたいと思う・・・」
(岩波現代文庫)
と書かれている。
戦争に非協力を貫く、苦悩する医学生が主人公、
1945年8月敗戦の意味を深く問う作品である。
振り返れば私は、日本が太平洋戦争へと突き進んでいく日々に幼少期を送り、
小学校に入学した夏に敗戦を迎えた。
その日をどんな思いで迎えたのか、それから価値観が転換していく中で、
どのような小学校生活があり、暮らし方があったのだろうか。
故郷の長野では直接に爆撃などの被害は受けなかったが、
戦地に行ったまま長く帰らなかった父と、
その間松山や仙台、長野を点々としながら父を待ち続けた母の苦労があり、
食うや食わずの食糧難に耐えた記憶も決して消えず、
8月には思いをはせることが多い。
本を読むことの醍醐味は、
主人公を始め、登場人物たちの生き方をたどることである。
死ぬことも、死なないことも偶然という極限の中で、極限に生きる。
戦争という最も過酷な状況の中で、
人が人として生きたいとの願いをうたいあげたこの小説は、
一篇の叙事詩のようだ。
瑞々しい感性、それは、どんな状況にあっても、決して圧殺などされはしない。
作者知の巨人は、情の巨人でもあったと思う。
この本から受け取るメッセ-ジは多い。

「平和になったのね」
「そうだ、平和はぼくらにとっては未来だ」

8月の空は今日も青く高い。
悲惨な戦争を繰り返してはならない。
決して、時代を逆戻りさせるように事があってはならない。
八木正江

里山の風景をつくる会 理事
地球温暖化を考える-市民アクション2011-徳島代表

2011年8月4 日(木) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より