ゴールデンウィークが終わって、京大のキャンパスに戻った私の耳に、
痛々しい悲鳴にも似た言葉が飛びこんできた。
友人の女子学生のその言葉を、今でも私は覚えている。

「カズミさんが亡くなった・・・」

カズミさんとは、元京大文学部助教授で作家でもあった高橋和巳のことである。
1971年の5月3日、高橋和巳は結腸ガンで亡くなった。39歳であった。
本人は最後まで死の病であることを知らされていなかった。
あれほどまでに意識的な作家であった和巳が、
「邪宗門」で主人公千葉潔の壮絶な死を描いた高橋和巳が、
自らの死を自覚しないまま死ぬとは。
復讐とも思える妻、高橋たか子の仕打ちを私は憎んだのであった。

高橋和巳の死は、もう一つの知人の死と記憶の中で重なっている。
高校の一年後輩である四宮俊治君のことである。
四宮君は1974年1月24日の白昼、東大の友人の引越しを手伝っていて、
襲ってきたグループに鉄パイプで殴り殺された。

革マル派シンパであった友人が、
身の危険を感じて引越しをしている最中での悲劇であった。
「中核派による東大生内ゲバ殺人事件」と、
翌25日の徳島新聞でも大きく報ぜられた。
狙われた本人はとっさに逃れて無事、と書きそえてあった。

四宮君のお父さんが雑誌「辺境」へ寄せた文「何という無意味な死」を、
私は涙なしでは読むことができなかった。

その年の秋、三一書房から「内ゲバの論理」という本が出された。
埴谷雄高編のその本には、
高橋和巳の「内ゲバの論理はこえられるか」や
埴谷自身の「目的は手段を浄化しうるか」、
そして鶴見俊輔の「リンチの思想」などが載せられている。

四宮君の内ゲバによる死がこの本を出させたのではと思う。
その頃京大でも、建築学科の同級生が寝込みを襲われ、顔面陥没骨折、
そして女子学生が素っ裸で校門前の木に縛り付けられたり、
というのが日常であった。

高橋和巳の残した次の文章が、
このような時代をなんとか前に向かって歩いていくときの私の精神的な杖となり、
磁石ともなったのである。

「苦しい変革過程の運動形態のなかに孕(はら)まれていなかったいかなるものも、
権力奪取後に不意に姿をあらわすことはない。
権力奪取後に、自由が制限されるなら、
それは運動形態自体のなかにすでに自由はなかったのである。」
(「内ゲバの論理はこえられるか」『わが解体』より)

建築家 野口政司   2010年 5月 15日(土) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より