ジョージ・オーウェルの『1984年』は、オルダス・ハクスリーの
『すばらしき新世界』と並んで、逆ユートピア小説の代表作だ。

『1984年』の中で、オーウェルは全体主義国家による
市民生活の統制・管理の恐怖を近未来小説として描いた。
ところがその小説と同じことが現実にこの世界に起こっていたのだ。

ドイツ映画『善き人のためのソナタ』は、今年のアカデミー賞外国語映画賞を受賞した作品だ。

時はオーウェルが描いたのと同じ1984年、東西冷戦下の東ベルリンが舞台だ。

国家保安省(シュタージ)局員のヴィースラーは、劇作家のドライマンとその恋人で
舞台女優のクリスタが反体制的であるという証拠をつかむことを命じられる。

当時、シュタージ正規局員は9万1千人、加えて17万人の非公式協力者が
社会を監視下に置いていたという。
一見普通な生活なのに、友人や家族でさえ信用できない日々。

1949年から89年11月9日の「ベルリンの壁」崩壊までの40年の間、
「怪しき」者は24時間盗聴され、徹底した監視下に置かれ投獄されていったという。

ヴィースラーを演じたウルリッヒ・ミューエ自身も東ドイツ出身で、十数年に渡り、
妻であり女優のイェニー・グロルマンによって監視されていた経験をもつ。
そのおさえた演技は、悲しいほどにリアルである。

二人の生活を監視し続けるヴィースラーであったが、盗聴器から聴こえてくるのは、
自由な思想、愛の言葉、そして美しいソナタ…。
いつしかあちら側の世界へと心が開かれていくのであった。

やがてヴィースラーはある決意をする。そして三人の運命が動き出し、
重なり合っていく。

目的(理想社会の実現)のために手段(盗聴・監視)を用いる国家。

それに対して手段(過程)の中にこそ目的(喜び、感動)が含まれている芸術。

自ら国家の手段そのものであったヴィースラーは、
二人の盗聴をすることで自分の存在を大きく揺さぶられたのであろう。

人の人生(あるいは国家)が過程の連続であるなら、
その道に咲く花の美しさに気がつくかどうかで
人生の色あいはずい分違うものになるのではないだろうか。

映画は素晴しいラストシーンに向かって流れていく。

静かに心にしみる映画である。

建築家 野口政司   2007年9月6日(木) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より