熱海の家 「日向別邸」
「日本は眼に美しい国である」
ナチスドイツから逃れた建築家、ブルーノ・タウトは、シベリア鉄道を経て、1933年5月3日、敦賀に着いた。
翌、5月4日は、タウトの53歳の誕生日だ。
桂離宮を参観したタウトは、先の言葉に続けて、
「今日は、おそらく私の一生のうちで最も善美な誕生日であったろう」と日記に書いている。
タウトは桂離宮を 「世界建築の奇蹟」 と最大限の評価をしている。
亡命の途中で見たギリシャのパルテノン神殿にも比すべき建築であると。
又、日本の民家の美しさを 「日本の田舎には “いかもの” がまったくない。
・・・田舎の家の建てかた、垣根、屋根の形などを見ていると、なるほど貧しさはあるにしても、
しかし決して “いかもの” ではない」と記している。
10年程前ドイツを訪れた私は、タウト設計のブリッツ・ジードルンクを見て感動した。
馬蹄形をした集合住宅で、池を取り囲むように住棟がえん曲している。
どの住居からも中庭に池が見え、ひとりでに中庭に誘われ、語らいの場となる心憎い設計であった。
しかし、3年半の日本滞在中に、タウトが計画、設計した建築は、ほとんど建たなかった。
唯一実現したのは、地下室の内装計画である、熱海の家(日向別邸)だけであった。
タウトが残したのは、日本の美しい文化を紹介する数々の本と、井上房一郎の依頼で
デザイン、制作指導した灰皿やカバンなどの工芸品だけであった。
大阪生駒の小都市計画と東京東横のジードルンク計画が実現していたら、
その後の日本の建築界に与えた影響ははかり知れない。
いかにも残念である。
タウトは、トルコの大統領、ケマル・アタチュルクに招へいされ、日本を離れる。
イスタンブール芸術大学の教授として、アンカラ大学の設計などを行うが、
タウトに残された時間は、2年間でしかなかった。
タウトの最後の作品は、トルコ建国の父、アタチュルクを送る葬儀場であった。
1938年12月24日、ポスポラス海峡を見下ろすイスタンブールの家でブルーノ・タウトは亡くなる。
58歳であった。
建築家 野口政司 徳島新聞夕刊12月22日付ぞめきより