作家の井上ひさしさんが亡くなった。75歳であった。

代表作の「四千万歩の男」は、
「大日本沿海実測全図」を完成させた伊能忠敬の伝記小説である。
忠敬は50歳で家督を子に譲り天文学の勉強を始め、
56歳から73歳で亡くなる前年まで日本全国を実測して回った。
その距離3万5千キロ、歩数にして四千万歩であった。
人生50年といわれた時代に、隠居後の56歳から始めたというところに、
私はうちのめされたり、又元気づけられたりもするのである。

「遅筆堂」という名のとうり、井上ひさしさんは自他ともに認める遅筆で、
〆切に遅れ、劇の開幕に間に合わなかったりという逸話も多い。
しかし、その作品のどれもが質の高さで知られ、
書き出した時には全てがほとんど頭の中で出来上がっていたとも言われている。

忠敬が一歩一歩歩いていったように、
井上さんは一作一作をていねいに仕上げ、
生涯を通じてどの作品も代表作と言えるほどの出来ばえであった。
一生トップランナー、いやトップウォーカーであったと言えるであろうか。

東北地方のある村が中央国家からの独立を宣言する「吉里吉里人」、
そして広島の原爆投下の後、生き続ける父娘を描いた戯曲「父と暮らせば」など、
国のあり方や戦争への批判を庶民の立場から表現した名作も多い。

又、井上ひさしさんはエッセーの名手でもあった。
「風景はなみだにゆすれ」は井上さんの宮沢賢治へのオマージュである。

釜石の国立療養所のスタッフとして、
花巻であった野球大会に参加していた井上さんは、町を散策する。
試合までまだ2時間以上あったのだ。

「賢治が毎日のように眺め暮した花巻市下根子の風景を、いまおれが眺めている。
この風景のどこかに羅須地人協会があるはずだ。
・・・しきりに口のなかで、
(いかりのにがさまた青さ/四月の気層のひかりの底を/唾(つばき)し
はぎしりゆききする/おれはひとりの修羅なのだ)
と、『春と修羅』の一節を呟いていた。
十九歳のにきびの青年はそのときとても涙もろくなっていたので、
<風景はなみだにゆすれ>て、歪んで見えていた。」

グランドに戻ったとき、試合はすでに終っていた。
主戦投手の井上さんがいないのにチームは勝っていた。
すっかり野球熱の冷めた井上さんは、休学していた上智大学に戻り、
文学の道を歩み出すことになる。

「ひょっこりひょうたん島」で
子どもたちの心をとりこにするようになる10年も前のことであった。

建築家 野口政司   2010年 4月 27日(火) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より