「ことばは意味であり社会的事実である。」
「生きたことばはその折々に人々の精神を反映する。」

近代言語学者のガーベレンツやソシュールはそう言ったそうな。

11月28日の本欄でも阿波弁が取り上げられていたが、
私も書かせていただく。

松山出身だった父親、国語の時間に生徒に「古事記」を教えようとして、
こじきと発音した途端にどっと笑い転げた腕白男児、
「先生乞食って何ぞな? ここにはおらんぞなもし」。
坊ちゃん気取りでからかったとか。

家族相手に何度も何度も発音して練習していたが、
意味が通じなければ、やはり言葉学者としては失格だったかもしれない。

私も徳島に住んで郷里・長野と反対のアクセントに悩まされた。
標準語に近いからどこでも通じるはずなのに けげんな顔で聞き返される。
おまけに言い方がきつくて怒られているようだと不評。
原因は語尾をはっきりさせる言い切りの形にあるらしい。

徳島に来てびっくり仰天の表現が幾つかあった。
今では自分流に阿波弁も使いこなせるが苦手なものもある。

はめる、がい、せられん、もえる、まがる、あるでないで、
往(い)んでくる、かってくる、こうてくる、してかーよ・・・ 頭が混乱することも。

「あんたひどいでぇ」と言われた時には、すみませんごめんなさいと平謝り、
「お金はいらんけんかってきて」、買うのにお金いらない?

筆頭は、はめるだけれど馴れてしまえば合点。
砂糖をはめる、茶碗にはめる、学校にはまる、役員にはまる、
絶妙な言い回しだと思う。
もっとも広辞苑を引いても徳島で使う意味合いは載っていないのだが。

グローバリゼーションの時勢にあって、
方言もまたその波間に消えつつあるという指摘もある。
しかし、忘れ去られていくものの中にこそ、
これから作り上げていきたい価値や物事の本質が含まれているのかもしれない。

愛すべき阿波のことばたち。
えっとぶり、ごめんなして、御寝なる、雑仕する など
美しい表現が消えてしまわないように大いに使ってみることにしよう。
そして、こんなに長く徳島に住んだのだから、
阿波の方言の由来やもっと広く徳島の文化全体を見渡してみたい。

里山の風景をつくる会 理事
地球温暖化を考える-市民アクション2009-徳島代表  八木正江
2009年 12月 1日(水) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より