これまで読んだ本でいちばん面白かったのは、と問われたら、
迷わずドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を挙げる。

学生時代に、三日三晩、食べることも寝ることもほとんど忘れて
「カラマーゾフの兄弟」を読みふけったことがある。

後にも先にもこんな経験は初めてであった。

その時読んだのは、米川正夫訳の河出書房版「ドストエーフスキィ全集」である。
時々県立図書館で探すのだが見つからない。
ロシア文学のコーナー自体も小さくなって、
昔程読まれなくなったのか、と寂しい思いをしていた。

ところが、最近「カラマーゾフの兄弟」が、時ならぬブームになっているという。
亀山郁夫訳の光文社古典新訳文庫全5巻が昨年完結し、
総計40万部近い売り上げで、古典として異例のベストセラーというのだ。

早速買ってきた。
これまで米川訳の他に原卓也、江川卓訳でも読んでいるので四人目となる。
文庫であるが字が大きいので助かる。

この物語の主人公であるアリョーシャを紹介している「三男アリョーシャ」の章を
読み比べてみた。

「この子は世界中に類のないただ一人の人間かもしれないよ。・・・」
(米川正夫訳)

「ひょっとすると彼は・・・世界でたった一人の人間かもしれないね。」
(原卓也訳)

「アレクセイという男は、・・・決して飢えや寒さのために死ぬことのない人間だ。」
(亀山郁夫訳)

うーん、三人三様である。

米川訳には格調があり、美しい日本語のお手本のようだ。
原訳は現代日本文にもっとも近く親しみやすい文章だ。
亀山訳はしゃべり言葉なので、リズミカルで読みやすい。

難解な上に長編であるという「カラマーゾフの兄弟」の敷居を
亀山訳はうんと下げたのであろう。
新たなファンを呼びこむという点でその意義は大きいと言える。
私自身は最初に読んだ米川訳が最高だと今でも思っているのだが・・・。

さて、30年ぐらい前のこと。
高校時代の友人のS君は徳島でも老舗の書店に勤めていた。
久しぶりにその書店で再会した私は、懐かしさもあっていろいろ話をした。

「この店には、ドストエーフスキィ全集は置いてないんだね。」
何気なく言ったわたしの言葉にトゲがあったのかも知れない。
S君は何でもないような顔をしていたが、まもなくその書店をやめた。

数年の放浪の後に徳島に帰ってきたS君から、
古書店を開くことになったとあいさつ状が届いた。
その店は「モウラ」といい、四国でも最大の在庫をもつ古書店であった。

そして、書棚のいちばんいい場所に置かれていたのは、
「ドストエーフスキィ全集」であった。

建築家 野口政司   2008年 5月26日(月) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より