年に一度訪ねることにしている場所がある。

六甲山の東すそ野の丘陵地に、目神山と呼ばれる所がある。
そこには建築家・石井修氏の自邸である『回帰草庵』が建っている。

そして向こう三軒両隣りという風に、
石井さんの設計した住宅が十棟ほど連なっていて、
その道は石井通りとも呼ばれている。

自然に囲まれた坂の道を歩きながら
石井さんの住宅を見て回るのを私は密かな楽しみにしているのである。

緑の建築家として知られる石井修さんは、
土地の形状をできるだけ壊さず、斜面に沿わせて家を建てる。

そしてその周りに木を植える。
家は木立の中に見え隠れしていて、奥行き間のある
実に魅力的な町並みができあがっているのだ。

数年前も、石井通りから『回帰草庵』を眺めていた。
といっても、この建築は眺めても見えないのだ。

北へ下っていく斜面に建っていて、手前には木立が茂っている。
見えるのは屋根、それも草ぼうぼうの草屋根と、
茶褐色のサビ御影石でつくられたアプローチの階段のみである。

その下がっていく階段を吸い込まれるような気持ちで見ていた時、
「どちらからおいでですか」と 尋ねられた。
石井修さんがちょうど帰ってこられたのだ。
「よかったら中をご案内しましょう」と 親切なおさそい。

あこがれの『回帰草庵』の中を、
それも設計者自身の解説つきで見られるという幸運に私は巡り会ったのだ。

二本の杉の丸太に支えられた居間は、
薄暗く母親の胎内のような空間であった。
中央に手作りの薪ストーブが座り、
左右の大きな窓から前の林とその間を流れる沢とが借景されている。

「安息感に充ちたここは、私にとって桃源郷である」と
石井さんがどこかに書いていたのを私は思い出していた。

この春も『回帰草庵』を訪ねた。
芽吹いた若葉がきらきらと輝いている。

昨年の九月、石井修さんは85歳で亡くなった。
この家の主はもういない。

石井さんが草屋根に上がって眺めたという
遅咲きの山桜の大木がちょうど満開であった。

「今年も来ましたね。桜が見ごろですよ」

石井修さんの声が聞こえたような気がした。

建築家 野口政司   2008年 4月22日(火) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より