忘れられない風景がある。その風景が見たくなって旅に出る。

30年前、初めて見たその風景はこの地上のものではなくて、ひとつの焼き物の上に描かれた風景であった。その焼き物、染付の陶箱が見たくなって、私は思い出したように大和安堵村に出かけていく。

斑鳩の里、法隆寺からバスに乗って20分ほど、奈良盆地のちょうど真ん中辺りに、ぽつんと取り残されたような村がある。

ここ安堵村は、陶芸家富本憲吉の生まれた所である。

富本憲吉は、東京美術学校で建築や室内装飾を学んだ後、イギリスに留学し、ウィリアム・モリスのアーツアンドクラフト運動に出合っている。帰国後、バーナード・リーチや柳宗悦らと交流し、朝鮮半島の焼き物を知り陶芸の道を志した。

富本憲吉が故郷の安堵村に陶房を構えたのは1913年、憲吉27歳の時であった。

憲吉は安堵村で見つけた土蔵や稲穂かけ、樹木や道などの素朴な風景を陶器に描き出した。青の濃淡だけで表現される染付は、そののどかな風景によく合っている。

日本の原風景ともいえるそれらは、詩人の目をもつ陶工によって、見事に染付けられ、永遠の命を与えられたのだ。

富本憲吉は、後に羊歯や定家葛の写生から生み出した独特の金銀彩の色絵連続模様を完成させ、1955年、日本で最初の人間国宝に認定されている。

しかし私は、東京・京都時代の都会的できらびやかな金銀彩も素晴らしいと思うが、むしろ大和時代、憲吉の初期の染付や無地の白磁壺の方が好きである。

1963年に憲吉が亡くなった後、安堵村の生家とアトリエは富本憲吉記念館として保存され、作品も初期のものを中心に展示されている。

訪れる人もまばらな、その記念館の辺りには、染付に描かれた素朴な風景がわずかに残されている。羊歯に覆われた堀を渡ると、草花が咲きそろう庭に出る。憲吉が好きだった定家葛も小さな白い花を咲かせている。

そこだけ時間が止まってしまったような盆地の真ん中で、私はひとり立ち続けていた。

建築家 野口政司  2006/7.1(土)徳新夕刊より